代表 上田 兼士のプロフィール

 

1:生い立ち

1980年8月18日、中華街や山下公園で有名な神奈川県横浜市中区で生を受けました。

どこにでもいそうな子供でしたが、ともかく野球が好きで月曜日・木曜日はテンションあがらず、くもんに行き、それ以外は学校から帰るとランドセルをぶん投げ自分の愛車にグローブとバットを乗せ公園で野球をしてました。

 また両親が共働きだった為、もちろん両親にも感謝しておりますが、幼少期の頃は、祖母が私の面倒をいつも見てくれておりました。

 そんなある日、私がテストで悪い点をとると祖母は外出禁止命令を出したのです。いつも優しいおばあちゃんが・・・あんた野球するのはいいけど漢字も書けない人が野球選手になれるわけがないでしょう?しばらくは・・・勉強勉強

 そこで私は考えました。

家に帰らなければいい。

 友達の道具を借り野球をしてたら、ケンジ  ケンジと呼んでる人がいました。

 それは当然おばあちゃん。私を探しに来ました。今考えればですが、野球が出来る公園は学校から自宅までで2つの公園しかありません。当然すぐ探されてしまいます。

 そんな祖母は今では他界をしておりますが、母のやさしさ×二倍の優しさを私に与えてくれて、感謝してもしきれません。

 

 

2:挫折からの社会人

 私のときの就職活動時期は、早い会社で3年生の秋ぐらいから始まりました。

 大学の時には野球から離れスキーのインストラクターのアルバイトをしてて知ったのですが、千葉県に室内スキー場を作った会社があると聞いたのです。それがデベロッパーです。そこの会社を調べ上げますますそこで働いてみたい。

でも結果は二次試験で敗退 同じデベロッパーも受けるが、どの会社も二次試験での敗退。ここで今までにない挫折感を味わう。

 どんどん友達が就職先の内定が出る中、私は落ち込んでましたが、

落ち込んでいる暇などありません。

 ならば町までの開発は出来ないにせよ、地図に残る仕事をしてみたく縁が合って大手土地活用会社に就職しました。

 

 

3:起業の決意

 34歳を向かえたときに、仲が良かった友人が各業種で独立をする人たちをうらやましいと思っていました。

 私もゆくゆくはとは思いながら、なかなか決心がつかない毎日でした。

 日頃生活をすると、仕事とは関係のない場所へお邪魔することがよくあります。

 例えばレストラン、美容室、その他遊びに行く場所。

色々と話を聞いて見ると、皆、経営者は私と同世代ではありませんか!

 人生、日本人はだいたいの人が80歳くらいまで生きるわけですが、

大半の人の人生はこう語ることができます。

「大学へ進学し、大手に就職し、勤め上げ退職金を受取り、年金を受け取り、老後を全うする。」私もサラリーマンでしたので、会社にいればあんたいという思考もあり、家族もいるしと、守りに入っていました。

 

ですが、ある日突然独立する決心がつきました。

久しぶりにサーフィンをやっているときの事です。

サーフィンをやってない方はわからないかも知れませんが、他のスポーツと違って同じ波は絶対と言っていいほど同じ波はきません。

 毎日会社で同じ事をするよりも、今までの経験を活かし新たなビジネスを考え、お客様や自分自身がよりよく豊になった方が人生楽しいじゃないですか・・・

 何がイヤって死ぬときにこんなありきたりな誰とも変わりのない人生がイヤだった。

言ってしまえばただのわがままかも知れませんが、その人の生き方に合ったストーリー大好きなんですよね。

しかも、実は憧れてるんですよね。

パーソナルを評価してもらえるというのは、誰だって嬉しい。

 

僕は「上田 兼士」という一つのストーリーをつくりあげたい。

もちろんいいことばかりではないけど、それもまたいい味を出してくれるんです。

大人数に埋もれてるよりも、自身の存在を示して生きていきたいと思い独立する決心がつきました。

これから先は「挑戦」が続きますが、信念を持って突き進んで行きたいと思います。